「先輩の遺してくれた作品を100年後に伝えたい」撮影監督・宮島正弘、悲壮な決意で訴える

「宮川一夫監督と仕事したい」その一心で…

大映映画から選りすぐった作品を4K化して上映する『大映4K映画祭』が、1月20日より角川シネマ有楽町で開催中です。このたび、4K『炎上』上映後のアフターイベントに、撮影監督の宮島正弘が登壇しました。

宮島は、1942年に広島で生まれ、日本大学に進学。その後どうしても名カメラマンの宮川一夫と仕事がしたくて、当時の永田雅一社長を大映本社で待ち伏せしたそう。

 

「いまなら捕まりかねませんね・笑」との問いに、「いえいえ、私は『新入社員若干名』とあるから『試験を受けさせろ!』と言ったまでで…」と応じ、笑いを誘っていました。

 

かくして1966年大映京都撮影所技術撮影課に入社。82年の退職後はフリーを経て映像京都に入社。チーフ助手として、宮川一夫撮影監督や森田富士郎撮影監督の作品を支えました。主な作品に『影武者』『瀬戸内少年野球団』『226』『陽炎』等多数。大阪芸術大学映像学科客員教授、日本映画撮影監督協会理事役員を歴任しています。

過去の名作の4Kは、もはや「新しい映画」

宮島は、『炎上』を見終えた観客に向けて語りかけました。

 

「4Kで復元された『炎上』はいかがでしたか。“新しい映画”を見た感じではないでしょうか」

 

1942年、戦争の真っ只中に作られた大映。しかし、51年『羅生門』はヴェネチア国際映画祭金獅子賞、53年『地獄門』でカンヌ国際映画祭グランプリ、53年『雨月物語』と54年『山椒大夫』はヴェネチア国際映画祭銀獅子賞と、「とてつもないことをやってのけた」(宮島)のです。

 

その後映画は、58年でピークに。日本の人口が1億そこそこだった時代に、のべ11億3千人が劇場に足を運んだといわれています。

 

宮島は66年に入社して最初に連れて行かれた試写室で観たのが『大魔神』だったそう。

 

「それに続く『大魔神怒る』『大魔神逆襲』を、いちばん下っ端として経験しました。やっとの思いで入社したのに5年で倒産してしまい、当時のスタッフはみんないなくなってしまった。でも、宮川一夫さん、森田富士郎さんら諸先輩に教わりながら作った数々の“作品”だけでも後世に遺したいと思います」

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備忘のためのメモは“絵コンテ”で採る

じつは宮島は、「当初は、映画をアーカイブするなんて、想像もしてなかった」と語ります。今回は、フィルムから起こしたフルスペックの4K。今回上映する作品を含め、すでに宮島は33作品の監修を終えています。

 

宮島は、『炎上』『おとうと』『雪之丞変化』の3作品から監修し、IMAGICAで修復。いまは「これでよかった」と言えるが、実は最初は「ハラハラしていた」そう。

 

「ぼくの主観で映画を観ていいのか。改めて観るにあたり、自分の主観でないとするならば、ぼくは、宮川一夫さん自身にならなければいけなくなる」

 

まさに、司法の世界であれば、あたかも「裁判官の“良心”とは?」が問われているような“葛藤”が、ご自身のなかにあったことを明かします。

 

ここで目指しているのは、「劇場公開時に観客が観たであろう」フレッシュな作品。

 

「そこで、監督が当時どう思って撮ったのか。宮川さんが遺した文字や雑誌なども考察に加えました」

 

その際のメモが独特。

 

「観ながら文字でメモを取っても、覚えられなくて悩んでいました。そこでぼくは(脚本家でもなく撮影監督だから)、シーン1から絵を描いてみることにしましたた。膨大な量になりましたが、こうしてひとつずつ描いてみると、監督、カメラ、照明といったそれぞれが何をしたかったのかが浮き彫りになってきます。後ろの人の表情の意図までわかってくるんですよ」

 

そうして宮島が描いた絵コンテは、400から500カット、多いときは1000カットにも及びました。

マーティン・スコセッシとの出会い

こうして「自分が忘れないように、間違えないようにとおもって作っただけ」の絵コンテが、マーティン・スコセッシとの出会いを生みます。

 

4つめの修復『雨月物語』から、スコセッシのフィルム・ファウンデーションと組んでいます。

 

ニューヨークのラボ「シネレック」で、4Kスキャンと修復をしたときのこと。スコセッシがこの絵コンテにぞっこんになり、「家宝にする」と持ち帰ったというエピソードがあります。

 

実はこのとき『沈黙ーサイレンスー』を制作中だったスコセッシは、霧が立ちこめた中から船が現れるシーンで、『雨月物語』にオマージュを捧げようとしていたのです。

気難しいスコセッシは、めったに人を入れることがない編集室に宮島を招き入れ、意見を求めたそう。

 

すると宮島は、「似ても似つかないじゃないか」と“日本語で”口走ったとか。

 

しかし以降、「シネレック」の協力のもと、修復は順調に進みました。

 

「フィルムの技術屋は、世界共通。わたしが映像を止めるようにいうだけで、何が問題だったのかみんなが即座に理解してくれるんです。手を上げたり下げたりといった仕草だけで、ことばは要らなかった」

 

そんな「シネレック」での修復は、グレーディング(色合わせ)以上に、光の採り方(明るさ)に時間を掛けたそう。『雨月物語』の修復時に、シネレックのチーフ、マーガレットが、冒頭とラストは同様のカットなのになぜ明るさが違うのか質問してきたときのことを話してくれました。

 

「冒頭のシーンは、ドーンという音とともに不安感を煽るために暗い。一方、ラストシーンではお化けになるのですが、ハッピーエンドにしたいとの要望を受けていたんです。ろくろを回し、心機一転、子どもと生きていかなきゃ行かなきゃというシーン…田中絹代の後ろから、それまでにはなかった光がピーッと差す。そのときから光が変わっているんです。あなたたちは、映画の何を見ているんですか、と言ったら、なるほど、日本人はここまで考えるのですねと納得してくれました」

なぜ2Kでも8Kでもなく「4K」か?

宮島は、35mm映画の修復には4Kがちょうどいいといいます。

 

「映画は大ウソをウソでないように見せている。解像度が高ければ高いほどいいというのは、病院の先生が診察に使うのならいいが、35mmフィルムの受け皿としては、4Kぐらいがちょうどいい。2Kではフォーカスが甘く感じるし、8Kではフィルムの粒子が見えすぎてしまい経年の化学変化で汚れた黒い点のように見えてしまうこともあるんです」

イベントのさいごに、宮島は立ち上がって、観客に訴えます。

 

「もうフィルムの消滅が目前に迫っています。79年の『無法松の一生』が色あせて、粉になってしまう。たった29年しか続かなかった大映ですが、当時の先輩方があんな思いで作った作品だから、100年先の人にも観て欲しい。そのために、ひとつでも多くの作品を、角川さんの力も借りながら、後世に残していきたいんです。皆さんのご協力をお願いします」

 

1910年代の映画は2%、1920年代の映画は3.8%しか現存していないとのこと。戦後黎明期に日本人が創り上げた世界に誇れる総合芸術を後世に残したいという宮島の熱い思いを受け止めたいと切に思いました。

 

角川では、過去の日本映画が続々4K化され、UHDブルーレイとしても発売されています。今回上映されている4K修復版もいずれUHDで発売されることを期待したいですね。

 

(取材・写真・文:遠藤)

[開催概要]

『大映4K映画祭』2023.1.20(金)〜角川シネマ有楽町、2023.1.28(土)大阪シネ・ヌーヴォ ほか全国順次開催